三位一体としての私
この記事は2021.6.、19:20に更新をいたしました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
三位一体としての私
高次の私
↑
↓
低次の私
神 | 魂 | 自己 |
空 | 愛 | 意識 |
存在性
生命力 |
感受性
繊細さ |
知性
気づき |
本能的欲求 | 感情 | 思考 |
腹部 | 胸部 | 頭部 |
上の表における最上段が〈悟り〉によって実現される〈最も高次の私〉であり、そこから下がって行くにしたがい〈低次の私〉となっていく。
〈繊細さ〉と〈気づき〉の重要性について
神 | 魂 | 自己 |
空 | 愛 | 意識 |
存在性
生命力 |
感受性
繊細さ |
知性
気づき |
本能的欲求 | 感情 | 思考 |
腹部 | 胸部 | 頭部 |
〈高次の私〉になればなるほど〈私そのもののエネルギー〉は微細なものとなっていくため捉え難く、〈低次の私〉になればなるほど〈私そのもののエネルギー〉は粗雑なものとなっていくために誰にとっても実感されやすいものとなる。
よって、言い換えるなら、
より〈高次の私〉を実現していくためには、より微細なエネルギーによって生成されている〈高次の私〉に波長を合わせていかなければならないので、〈繊細さ〉と〈気づき〉の精度をさらに上げていくことが必要となってくる。
裏を返せば、「〈繊細さ〉と〈気づき〉の精度が低ければ低いほど、そのままの状態では〈低次の私〉の実現しか望めない」とも言えるし、「〈低次の私〉しか実現していない人ほど、〈繊細さ〉と〈気づき〉の精度が低い」とも言えるのである。
伝統的宗教用語との関連性
下の表におきましては、上下の順列における高次と低次の私における区別は関係なく、ご覧になられてください。
神 | 魂 | 自己 |
父なる神 | 精霊 | 子なる神 |
ブラフマン | 両者をつなぐもの | アートマン |
絶対 | 両者をつなぐもの | 真我 |
空 | 愛 | 意識 |
サット
(存在) |
アーナンダ
(至福) |
チット
(意識) |
存在性
生命力 |
感受性
繊細さ |
知性
気づき |
本能的欲求 | 感情 | 思考 |
腹部 | 胸部 | 頭部 |
下丹田 | 中丹田 | 上丹田 |
腹のチャクラ | ハートチャクラ | 第三の目 |
無為の瞑想 | 祈り | 集中の瞑想 |
スピリチュアル用語との関係性について
神 | 魂 | 自己 |
空 | 愛 | 意識 |
生命力
存在性 |
繊細さ
感受性 |
気づき
知性 |
本能的欲求 | 感情 | 思考 |
腹部 | 胸部 | 頭部 |
初級者向けスピリチュアル
上の表との対応において〈赤の太字〉で記されているように、
世間一般的にも大衆向けのスピリチュアル用語としても使われている〈ハート〉とは〈感受性〉や〈感情〉のことであり、より高次の教えにおいては〈魂〉や〈愛〉についてを指す場合もある。
また、上の表との対応において〈青の太字〉で記されているように、
スピリチュアル用語としてのみならず世間一般的にも使われている〈マインド〉とは〈知性〉や〈思考〉のことである。
上の表との対応において〈緑の太字〉で記されているように、
ヨガでいうところの〈チャクラ〉、その中でも〈瞑想を深めていくことにおいて極めて重要となる3つのチャクラ〉、すなわち、道教でいうところの〈丹田〉とは〈《頭部》や《胸部》や《腹部》に宿るエネルギーセンター〉のことである。
中級者〜上級者向けスピリチュアル
上の表との対応において〈オレンジの太字〉で記されているように、
〈高次の優しさ〉とは〈愛〉と〈繊細さ〉と〈気づき〉のコンビネーションによって自ずとなされるものである。
上の表との対応において、
ラマナ・マハルシが「私は誰か?」という問いかけによって目覚めさせようとしていたものとは〈《意識》または《自己》としての私〉のことである。
上の表との対応において、
ラジニーシ(OSHO)がいうところの〈観照者〉とは〈《意識》または《自己》としての私〉のことである。
ここから下の文章におきましては、省略されている部分がございます。
その理由は、〈それらの知識が、ねじ曲げられた理解によって広まってはいけない〉という意味において〈秘しておくべきものである〉からです。
それゆえ、(有料ではございますが)この記事においては省略されている部分も表記されている〈完全版〉の方もございますので、興味がお有りの方は、そちらの方を御覧ください。
〈自己探求をされている上級者の方々〉や〈悟り系のスピリチュアル教師の方々〉にもお役に立てる内容になっていると自負しております。
上の表との対応において、
ラマナ・マハルシがいうところの〈存在の体験〉とは(中略)のことであり、これは(中略)において(中略)ことがある。
ラマナ・マハルシがいうところの〈存在の覚醒〉とは(中略)のことであり、これは(中略)によって起こりうる。
ちなみに、
ラマナ・マハルシがいうところの〈存在の体験〉とは、実際のところ、(中略)なのだが、それを(中略)というのが難しいというわけなので、そのような困難を克服するためには(中略)が絶対的に必要となるのである。
そこで(中略)を、『空としての心の伝達』によって(中略)ことによって、(中略)というわけなのであります。
上の表との対応において、
ニサルガダッタ・マハラジがいうところの〈純粋な気づき〉とは〈気づきの源泉〉である〈意識〉のことである。
ニサルガダッタ・マハラジがいうところの〈意識に先立つもの〉とは(中略)のことである。
ニサルガダッタ・マハラジがいうところの〈絶対〉とは(中略)のことである。
上の表との対応において、
ゲオルギー・グルジェフがいうところの〈自己意識〉とは〈意識〉や〈自己〉のことである。
ゲオルギー・グルジェフがいうところの〈悟り〉とは(中略)のことである。
ゲオルギー・グルジェフがいうところの〈客観意識〉とは(中略)のことである。
また、上の表との対応に基づいて言うなら、
〈高次の私を実現している人〉ほど、〈生命力〉と〈繊細さ〉と〈気づき〉のレベルがそろって高い
ということになる。
もちろん現実に照らし合わせてみても、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジやゲオルギー・グルジェフやラジニーシ(OSHO)などといった〈極めて高次の私を実現した人たち〉の顔つきを見ていても、彼らの残した言葉を読んでいても、それなりに高次の私を実現している人ならば、そうであることを推察することができるであろう。
ゆえに、あなたが指導者を選ぶ時は、「〈高次の私を実現している人〉ほど、〈生命力〉と〈繊細さ〉と〈気づき〉のレベルがそろって高い」という、このモノサシを使うと良いでしょう。
もちろん、これは「〈生命力〉と〈繊細さ〉と〈気づき〉のレベルがそろって高い」というのが味噌でね。
なぜなら、
●〈生命力〉と〈気づき〉は強いが〈繊細さ〉に欠けている人というのは、優しくなくて傲慢であるがうえに、悟ってもいないということになる。
〈繊細さ〉に欠けていると、微細なエネルギーである〈意識〉や〈愛〉や〈空〉との継続的な接触が難しくなるので、基本的には粗雑なエネルギーである〈思考〉や〈感情〉や〈本能的欲求〉と接触することしかできないからである。
●〈生命力〉と〈繊細さ〉は強いが〈気づき〉に欠けている人というのは、思い込みが強くて愚かなうえに、悟ってもいないということになる。
〈気づき〉に欠けていると、〈思考〉や〈感情〉や〈本能的欲求〉に巻き込まれていてもすぐに気づくことができないので、〈意識〉や〈愛〉や〈空〉との継続的な接触が困難となるからである。
●〈生命力〉に欠けている人というのは、必然的に〈気づきのエネルギー〉も弱くなってしまうし、〈三位一体としての私〉の進化的成長のための余力エネルギーにも乏しい。
それに、〈生命力〉が弱いと、〈生命力の源泉〉である〈空〉との継続的な接触が難しくなるので、〈空の根源〉である〈神〉の次元にまで到達することも難しい。
しかし裏を返せば、〈極めて高次の私を実現した人〉というのは〈極めて繊細であるがゆえに、極めて傷つきやすい人〉でもあるので、〈優しさ〉や〈繊細さ〉や〈気づき〉のいずれかが極端に欠けた人たちに対しては、自己防御として意図的に〈外側に向けての《繊細さの扉》を閉じておくこと》もあるので、そのような場合においては〈《優しさの扉》も閉じられてしまう〉がゆえに、表面的には傲慢で冷たい人であるという印象を受ける場合もあるでしょう。
私が思うに、〈極めて高次の私を実現した人〉というのは、〈その気づきと生命力の強さに由来するとても強い人であると同時に、鈍いからというわけではなく、極めて繊細であるがゆえに傷つきやすい人〉でもあるので、ラマナ・マハルシは市井の人々との関わりから逃げるように山の中へと逃げこんだのだろうし、(「アイ・アム・ザット 私は在る」の頃とは違い「意識に先立って」が収録された頃である)晩年のニサルガダッタ・マハラジは(ガンによる痛みに耐えていたということもあったのだろうが、)探求者との対話において一刀両断ともいえるようなブッキラボウな受け答えに変わっていったのではなかろうか・・・
優しくて繊細であるがゆえにね・・・
このことは、彼らが「(市井の人々をも含めた、この地球というこの顕現の次元から完全に開放されると言う意味において、)肉体としての死を楽しみにしている」などといったような発言をしていることからも垣間見ることができる。
しかし、彼らは(極めて明晰で精度の高い気づきがあることは大前提だが、)優しくて繊細であるがゆえに、極めて稀なる〈悟り〉を実現したということは間違いない。
終わりに
《三位一体としての私の並列的な成長》という観点からこの記事を書いたわけだが、上記のことをそれなりに理解されたうえで、《私としての直線的な成長》という観点から書かれた〈悟りのリストランテシリーズ〉を改めてお読みになられ、さらにもう一度、この記事をお読みになられると、その理解は格段に深まっていくことでしょう。
さらに言うなら、以上のような新たな理解に伴い、そのエッセンスの配分を変えて、6月期よりノーコンタクトセッションでの『心による伝達』を新たにしたというわけであります。
お楽しみに・・・
木幡 等 Hitoshi Kowata の『心による伝達』
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